※このシリーズは、日々のお金の使い方と、心に残る“あと味”について静かに考える連載です。
お金を使っても、あとに何も残らない。
そんな出費が続くと、「本当に必要だったのか?」って、ふと考えてしまう。
でも、たまにあるんだ。
使ったあとに、静かに暮らしが前に進む出費が。
カメラを買った日のことを思い出す
決して安くはなかった。
正直、買うまでに何度も迷った。
「こんな高いもの、本当に自分に必要なのか?」
「ただの気晴らしで終わるんじゃないか?」
いろんな声が、頭の中を行ったり来たりしてた。
でも──買ってみた。
届いたカメラを手にして、「どう使おうか」って考えている自分がいた。
暮らしが、すこしだけ動き出した
最初の週末、カメラを持って外に出てみた。
いつも通っている道なのに、光の入り方や影のかたちが気になった。
「この角度、いいな」と思いながら、シャッターを切る。
その瞬間、ちょっとだけ気持ちが動いた。
「これ、買ってよかったかもしれない」って。
それはたぶん、モノが良かったんじゃなくて、
そのカメラが“暮らしのリズム”を変えてくれたから。
高い出費は、いつも贅沢なのか?
たとえば車でも、服でも、家具でも──
「高い」と思えば、それだけで罪悪感が湧くことがある。
でも、“高い”こと自体が悪いわけじゃない。
問題は、そのお金で「なにを得たか」だ。
便利さだったかもしれないし、
学びだったかもしれないし、
誰かとの時間だったかもしれない。
それが日々に溶け込んで、
「暮らしがちょっと整ったな」と感じられたなら、
その出費はもう“贅沢”とは呼ばなくていいんじゃないかと思う。
自分のために、自分のタイミングで選ぶこと
“他人の目”じゃなく、
流行でもなく、
自分が「これが欲しい」と思って、ちゃんと考えて選んだもの。
そういう出費は、
たとえ高くても、あとに後悔が残りにくい。
むしろ、「選んだ自分」をちょっと好きになれる。
いつか役に立つ“買ってよかった”という感覚
時間がたっても、あのときの出費を思い返すことがある。
思い返すたびに、
「あれは自分にとって必要な一歩だったな」と、
しみじみ思う。
それってたぶん、
“ただの買い物”じゃなく、“考えて使ったお金”だったからだ。
今日のひとこと
出費の価値は、使ったあとにわかる。
暮らしを少しでも前に進めてくれたなら、
それはもう立派な“整う出費”なんだと思う。
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