お金を使うとき、他人の目を気にしてない?|見栄と浪費の境界線

心とお金の習慣

誰にも見られてないのに、なぜこれを買ったんだろう
そんなふうにふと立ち止まることがある。

たとえば、ちょっと高めのワイングラス。
洒落た部屋着。おしゃれなキッチンツール。
ひとり暮らしの部屋に、誰かが来るわけでもないのに。

「これ、誰に見せるつもりだったんだろう」
って、買ったあとに思うんだ。

自分のため、って思ってたはずなのに、
それはほんとに、自分のためだったのか。
誰かの目を気にしていたんじゃないか。

最近、そういう「見栄の出費」が増えてた気がする。

見栄と自己投資のあいだ

お金を使うことに、罪悪感があるわけじゃない。
ただ、自分で自分に嘘をついてる感じが、少し苦しいんだ。

たとえば本。
読みたくて買う。知りたくて買う。
これはちゃんと自分の軸で使ったお金だと思える。

でも、流行ってるからとか、
インスタに載せたら映えそうだから──
そんな理由で買ったものは、あとあと心に残らない。

結局、「誰かに見せるために買ったもの」は、
時間が経つと一番さみしく見える。
誰にも見せられないと、意味を失ってしまう。

使うたびに思い出すのは、
そのときの自分の顔だ。

見栄のために、無理して笑ってた自分。
ちょっと背伸びしてた自分。

ああ、あのときの自分って、ちょっと疲れてたな、って
後から気づくことが多い。

心に残る出費ってなんだろう?

逆に、心に残る出費って、どんなときだろう?

たとえば、ぼくにとってはカメラだ。
高かった。かなり迷った。でも、買ってよかったと思ってる。

それは、他人の目じゃなくて、
「自分がこれをどう使いたいか」をちゃんと考えたからだと思う。

カメラを手にした瞬間、
なにを撮ろうか、どこに行こうか、って自然に考えた。

使いながら、暮らしがすこしずつ変わっていく。
そういう変化の中で、「これはいい出費だったな」って感じられる。

心に残る出費には、
“暮らしの風景”が一緒にくっついてくるんだ。

思い出が積もっていく。
買ったものが“物じゃなく、時間に変わっていく。

そういうものだけが、あとあと残る。

クレジットカードと「買った記憶」

クレジットカードで何でも買えるようになって、
「お金を払った感覚」ってだんだん薄れてきた。

財布から万札が減るわけじゃないから、
自分が何に使って、いくら失ったかが見えにくい。

で、気づいたら「何に使ったか覚えてない」って出費が山ほど残る。

心に残らない出費って、だいたいが
「ただのストレス解消」で済まされてしまってることが多い。

コンビニでつい買ったスイーツ、
セールの勢いで買った服、
よくわからないままクリックしたサブスク。

どれもそのときは気分が上がるけど、
数週間後には“なかったこと”になってる。

つまり、「買ったもの」より「気分」が欲しかったんだ。
これは、ぼく自身がそうだったからよくわかる。

他人に見せる暮らしより、自分が感じる暮らしへ

ここ数年、SNSの世界で生きてると、
「見せるための暮らし」が当たり前になってくる。

だけど、ほんとは“誰に見せなくても、心が落ち着く暮らし”のほうが、
じわっと長持ちする。

お金の使い方もそう。

“いい暮らし”って、他人からの「いいね」で決まるもんじゃない。

・買ってよかったと思えるか
・使いながら、少しずつ暮らしが前に進んでいるか

そんなふうに、自分の中の「手応え」で測っていけば、
見栄の出費は、自然と減っていく気がする。


今日のひとこと

「他人に見せるための買い物は、心には残らない」

コメント

タイトルとURLをコピーしました