ああ、またやっちゃったなと思う日がある
財布を開いて、何かを買う。
そのときはちょっと気分が上がる。
だけど、家に帰って、レシートを見て──
「やっちゃったな」と思うことが、たまにある。
欲求のままに動いたときほど、あとに残るのはスッキリじゃなくて、
ちょっとした後悔だったり、
「あれ、あんなに欲しかったっけ?」っていう不思議な気持ちだったりする。
使った金額よりも、そのあとに心に残る重さの方が気になったりして、
買い物ってやつは、本当に不思議だなぁと思う。
必要な出費には、感情が残らない
生活用品とか、絶対に使うって決まってるお金がある。
洗剤、トイレットペーパー、米、光熱費。
これはもう「感情のない出費」だ。
買っても何も思わないし、
「買ってよかった!」なんて感じることもほとんどない。
だけど、そういうお金の使い方は、
あとで自分を責めることがない。
「必要だったもんね」って、自然に納得できる。
それって地味だけど、すごく大事なことだと思う。
“使ったあとに何も残らない”っていうのは、ある意味、とても健やかだ。
使ったあとに“これから”が見えるお金は、うれしい
一方で、気持ちがふわっと浮くような出費もある。
たとえば、カメラを買ったとき。
新しいレンズを手に入れたとき。
「よし、今度の休みにあの景色を撮りに行こう」って思える。
“これから何かが始まりそうだ”っていう出費には、
お金以上の価値がある。
それはもう、ただのモノを買っただけじゃない。
時間の過ごし方や、視点や、ちょっとした楽しみ方を買ったようなもんだ。
そういうお金は、使ったあとに、
小さな期待や、未来が残る。
つまり、お金そのものに感情があるんじゃなくて、“使い方”が感情を生む
お金って、そもそも何の感情も持ってない。
紙かデータか、ただの数字だ。
でも、それをどんな気持ちで使ったかで、
あとに残るものがまるで違ってくる。
欲望のままにポチッとしたときは、
「なんでこんなの買ったんだっけ?」が残る。
必要なものを買ったときは、無風。
ただそれだけ。
心が整ったときに使えたお金は、
「使ってよかったな」と思える時間を運んできてくれる。
お金は“消えた”んじゃない。“何かと交換しただけ”だと思えるかどうか
「また減ったな」って思うこともある。
でも、減ったお金は“失った”わけじゃなく、何かと引き換えたんだって思えるかどうか。
引き換えたものが、「ただの一瞬の気分」なのか、
「これからの日常に続いていく小さな種」なのか。
そこに、使ったあとの気持ちがくっきりと分かれる。
有意義に感じる使い方は、“ちゃんと自分で選んだ”という実感がある
結局、一番あと味がいいのは、
自分の中でちゃんと考えて決めた出費なんだよな。
流されたわけじゃなくて、
“自分が欲しかったから買った”って言い切れるもの。
それがカメラでも、
本でも、
ちょっと高いパンでもいい。
そのとき、「自分が選んだ」っていう実感があるだけで、
お金の価値がグッと変わる。
だから今日も、“何が残るか”を想像しながら財布を開く
これから使うお金が、
使ったあとに何を残してくれるか。
罪悪感か、静かな満足か。
無風か、ちょっとした期待か。
たぶんそれは、
“何を買うか”じゃなくて、“どういう気持ちで選ぶか”で決まる。
だから今日も、少しだけ立ち止まって考える。
「このお金、使ったあとに何が残るだろうか?」って。
今日のひとこと
お金をどう使ったかは、
あとから“気持ちのかたち”になって返ってくる。
コメント