よし、自分にごほうびだ、って思ったのに
新しい服を買った。
その日はたしかに、「自分へのごほうび」っていうつもりだった。
がんばった週だったし、
なんとなく気分も晴れなかったし、
前から気になってた服だったから、
「よし、これは買っていいやつだ」って、自分に言い聞かせた。
けど──
それを着て出かけたとき、
なんとなく心がざわついた。
「似合ってるかな?」
「この色、浮いてないかな?」
「誰かにオシャレって思われるかな?」
そういう“他人のまなざし”が、
頭の中をずっとグルグルしてた。
買ったのは「服」じゃなくて、「印象」だったかもしれない
たしかに、好きな服ではあった。
でも、あのとき本当に欲しかったのは、
「自分が着て気持ちいい服」じゃなくて、
「誰かに見られたときにうまくいく服」だったんだと思う。
ごほうびって、自分の中にちょっとした満足が残るものだと思ってた。
けど、この服には、満足よりも気づきのほうが残った。
「これ、誰のために選んだんだろう」って。
“誰かに見られる自分”のために使うお金は、あと味が薄い
「よく見られたい」とか、
「ちゃんとして見えたい」とか、
そういう気持ちって、どこかにいつもある。
人間関係の中で生きてるから、それは悪いことじゃない。
でも──
その気持ちだけで買い物すると、あとに“なにもない”感じが残る。
見栄とか、期待とか、
そういうもののためにお金を使ったときって、
その瞬間のドキドキはあるけど、
家に帰ると、なんだかしん……とする。
「買ったはずなのに、満たされてない」
それが、いちばんつらい。
「自分のために使った」と言い切れない買い物は、あとにモヤモヤが残る
お金って、どこにどう使ったかで、
“自分が自分にどう向き合ってたか”が見えてくる。
自分のためだと思って買ったのに、
その実、“誰かの目を通して選んだ”買い物だったら、
使った金額のわりに、なにも残らない。
モノはそこにあるのに、
気持ちだけがどこか遠ざかっていくような、
あの独特の空しさ。
ほんとうのごほうびは、「自分にしかわからない嬉しさ」があるもの
買ってすぐは目立たなくても、
ふとしたときに「これ、買ってよかったな」と思える。
たとえば、お気に入りの靴下とか、
自分の部屋にぴったりの照明とか、
何度も読み返したくなる文庫本とか。
“他人にはわからない嬉しさ”があるものこそ、
本当のごほうびかもしれない。
そう思うと、
「オシャレに見られたかった」っていう服は、
べつに失敗じゃなかったけど、
“ほんとうのごほうび”ではなかったんだと思う。
買い物のあとに残るのは、モノじゃなくて「使い方の記憶」かもしれない
服はクローゼットにかけられてるけど、
あの日の気持ちの方が、今もよく覚えている。
「誰かにどう見られたいか」じゃなくて、
「自分がどう過ごしたいか」で選べるようになりたい。
そう思うようになっただけでも、
あの服は、自分にとってちょっと大事な“学び”だったのかもしれない。
今日のひとこと
ごほうびのつもりで買ったのに、
なにも残らなかったとしたら、
それは“誰かの目”のために選んでしまったからかもしれない。
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